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自転車の無灯火を心理的に考える|リスク認知・幼児的万能感・他者視点

突然ですが、私は自転車通勤です。

愛車は古いクロスバイクですが、改造を重ねて個人的には満足のいく愛車になっています。

詳しい経緯は省略いたしますが、最近自転車のヘッドライトを取り替えました。

理由は単純に「危険だから」なのですが…

 

前から思っていたのですが、通勤路の多摩川サイクリングロードにしばしば夜間無灯火で走るスポーツ自転車の人が散見されます。

勝手な統計ですと、2~30台に1台くらいでしょうか?

普通に考えて危ないのですが、今日はなぜそんなことが起きるのかをまじまじと考えてみたいと思います。

 


法的なことから

考察をする前に、最低限の「枠」がないと話になりませんので、ここで一気にご紹介いたします。

 

(1)自転車は軽車両

軽車両(けいしゃりょう)とは、日本の法令の用語で、原動機を持たない車両の総称である。運転にあたり運転免許は不要だが、自動車などと同様の交通規則が定められており、違反を取り締まられた場合には交通切符(赤切符)が交付される。なお、軽車両と軽自動車は無関係である。(Wikipediaより,2017,11,16)

 

(2)法律上必要なもの

①ブレーキ

 10km/hを3mで止まれるもの

②条例上義務付けられているもの

 東京ではベルはmustです

 

(3)夜間(暗所)走行時必要なもの

③ライト(前照灯)

 白色または淡黄色で前方10m以上先の物が確認できるくらい

④尾灯(尾灯がなければ反射器材)

 赤色で100m以上後ろから点灯を確認できるもの。

 反射器材の場合、ハイビームで100m以上後ろから確認できるもの

 

(4)夜間っていつ?

 日没~夜明け

 

つまり、ブレーキとベルがついていれば、日中暗くなる前なら走ってOK。

夜走るならちゃんとライトつけてね。

じゃないと違反だよ?

ということのようです。

なお、このページでは「ライトが壊れている」という前提では話をしませんのでご了承ください。

 


実際どれぐらい危険なのか?

写真で見ていただいた方がわかりやすいと思うので、実際に撮影してきました。

これが実際の多摩川サイクリングロード、東急田園都市線二子玉川駅近くの、二子橋の近く、11月9日17:30位のです。

この日の日没は17:00位で、もう真っ暗です。

ちなみに、一応弱い前照灯つけてますが、カメラの性能的に映ってませんね。

使っているライトは15ルーメン(明るさの単位です)。

画面中央がほんのり明るいはず…

カメラの露出がどうとか、レンズがどうとかの話はここでは割愛いたします。

こちらが同じ場所を新型ライトで照らして撮影したものです。

やっと道が見えますね。

ちなみにライトは公称値1200ルーメンです。

(実際は800ルーメンくらいの気はしますが…)

全然違いますね。

ここでは、どのメーカー品とか、800ルーメンは対抗車に迷惑なんじゃないか(まぶしい)とか、そういう議論は置いておきます。

なぜ、こんな暗い道を無灯火で走れる人がいるのか、というのが今回の疑問です。

 


仮説① リテラシーの問題

知らないものは実践できません。

例えば、新しい会社(バイトでもなんでも)での仕事は、書類の提出一つもそのやり方がわからず、誰かに聞かないとできず、結果大したことなくても時間がかかってしまうのは誰でも一度は経験しているはずです。

 

つまり、夜間にライトをつけなければならない、ということを知らない可能性がある…

 

いや、さすがにそんなわけはないですよね…

 


仮説② 著しい想像力の欠如

ごくごく普通に考えて、暗い道を無灯火で猛スピードで走っていたら(多くのスポーツ自転車乗りの人は30km/h以上出しているでしょう)、何かと衝突したらどうなるかは想像に難くないはずです。

 

まず前輪が当たります。

多分衝撃が来ます。

その後シートベルトもありませんので、前に投げ出されます。

衝突物に当たるかもしれません。

そしていつかは地面に落下します。

結構な確率で、結構な負傷をするでしょう。

最悪死や後遺症の可能性もあります。

家族や職場での実質的、経済的、精神的負担は確実にあるでしょう。

 

こういったことが想像できない可能性があります。

心理的というよりは、どちらかと言えば脳機能的な問題と言った方が近いかもしれません。

時に重篤な発達障害(知的障害や自閉症など)に良く見受けられるケースです。

その場合、KYT(危険予知トレーニング)や、SST(社会的スキルトレーニング)をする必要がありますので、直ちに専門機関に受診して、リハビリテーションを開始することをお勧めいたします。

ちなみに、当オフィスでもできます。

 

が、さすがにこれもないでしょう…

 


仮説③ リスク認知と認知のバイアス

私たちは「リスク」というのを考えることができます。

想像力が適切に働いていればなおさらです。

例えば、「大震災が発生したらどうするか?」といったものです。

 

無灯火自転車のリスクを考えると色々考えることができます。

小さいものでは警察官による指導及び反則金。

大きいものでは死亡事故。

 

しかし、それにどう「備えるか」という点に対しては個体差があると言えます。

実際、「大震災が発生したらどうするか?」は、東日本大震災を始め多くの教訓がありますが、実際にすべての対策を個人レベルで行うには限界はある一方で、例えば食料貯蔵などを全世帯がやっているわけではありません。

この差がリスク認知と、認知のバイアスと言えます。

 

実際に震災を経験した方は、恐らく備えも(どの程度かは別として)やっていることでしょう。

一方で、震災を経験せずに来ている方は、備えもそこまでしていない傾向があると言えるでしょう。(あくまで傾向です)

 

人間は自分にとって都合のいい情報を得がちです。

以前誤った経験則ヒューリスティックの記事を書きましたが、自転車の無灯火も同じことが起こりえます。

 

つまり、誤った経験則によるリスクを低く見積もることです。

昨日無灯火で事故に合わなかった

 ↓

今日も無灯火

 ↓

事故に(多分)合わない(対向車が避ける)

 ↓

明日も無灯火

という構図ですね。

飲酒運転、糖尿病の食事指導などの構図と同じと言えます。

 

この場合、客観的な教育・指導と本人の意識改革が必要です。

事故は起こりうるもの、その確率を下げるためにできることをしなければならない、万一発生しても軽くなるような形にしなければならない、といったものです。

無灯火のスポーツ自転車に乗っている、非常に多くの方がヘルメットを被っていらっしゃいます。

今一度、そのヘルメットの意味を考えていただきたいものです。

 


仮説④ 誇大的万能感、幼児的万能感

上述のリテラシーと想像力、さらにリスクは問題ないと仮定すると、次はこの問題になりますかね…?

「俺(私)は事故らないから大丈夫!」的な考えです。

 

ここまでくると、心理的な問題として大きくなってきます。

精神分析の始祖S.フロイトは「幼児的万能感」という提唱をしています。

人間誰しもが赤ちゃんで生まれ、その時は何もできません。

「ふぎゃ~(泣)」と一生懸命泣き、親にその意図を汲み取ってもらいます。

実際に親はその意図を汲み取り、子どもは快適な状態へと戻っていきます。

お腹減った(母乳・ミルク)、気持ち悪い(オムツ、風邪)、ストレス…などなど。

子どもからすると、万能的な世界です。

 

しかし、子どもは成長に伴って世界(もしくは親)はそこまで万能で優しくもなければ、自分もまた万能ではないことを徐々に受け入れていきます。

親は常に自分のことだけを見てくれるわけではありません。

仕事に行きもすれば、「ちょっと待って」とすぐに願望をかなえてくれるわけでもありません。

小学校にもなると、足の速い子もいれば遅い子もいる、国語は得意だけど算数は苦手、等、自分のできるできないはダイレクトに自分でわかってしまいます。

「自分と他人は違う」という「当たり前」のことと言えます。

人は万能ではありませんので、その経験を清濁併せ飲むことによって、等身大の自分を形作っていくのです。

できないことも受け入れていくことになりますので、心は大変苦痛を伴うワークスルーと言えます。

 

しかし、清濁併せ飲まずに大人になる(18歳を超える)というケースもあります。

あまり怒られずにかつ我儘に育てられた人、若くして成功過ぎる成功をおさめてしまった人、例えば親などに力があり、自分ではないけど自分には力があると思って育った人、ハラスメントを自分で気づかずやっている人などに多いように見受けられます。

 

先に述べたような幼児的万能感からなかなか現実の世界と折り合いが付かず、大抵周囲の家族、会社(同僚)、一般の人などに迷惑をかけ続けていますが、自分にその認識は全くありません。

当オフィスでも、周りの人から相談を頂くことの方が多いです。

冒頭の無灯火も同じような事例と言えるでしょう。

 

このようなケースは、頭の痛いところです。

本質的にはご本人に改めて世界の再構成、清濁、自身のできるできないなどをワークスルーしていただかなくては解決はしません。

が、本人に全く困り感がない(万能的でありたいが故にすべて周りのせいになっている)ため、周囲が本人の困り感を押し付けられている状況になるわけです。

自転車で言うのであれば、無灯火とすれ違っている多くの灯火している自転車でしょう。

きっと事故など起こしたら食って掛かってきます。

 

ケースバイケースではありますが、まずはご本人に困りのとっかかりを作るところから始めていかなくてはなりません。

そのために周囲の方の協力が必要不可欠ですが、なかなか労力がかかるため周囲の人が我慢するという形で終わってしまうこともあり、難しいケースの形になります。

 


仮説⑤ 他者視点に立てない

上述の幼児的万能感とも似ていますが…

私たちは時に「〇〇さん(相手)だったら、どう伝えたら受け入れてくれるかな?」ということを考える場面があると思います。

これは自分と、相手は違うという前提の上で成り立っています。

営業然り、新商品然り、接客然り、私たちのビジネスの多くはこう言った視点が必要不可欠になります。

 

しかし、時に他者の視点に全く立てない方がいます。

自転車の例ですと、「俺(私)は対向車が見えているから大丈夫」ということになります。

 

ちょっと考えればわかりますよね…?

相手(灯火の人)が見えるのは、相手(灯火の人)が点灯しているからです。

相手(灯火の人)を避けているのはあなた(無灯火の人)かもしれませんが、それをさせているのは相手(灯火の人)です。

しかし、相手(灯火の人)はあなた(無灯火の人)は見えていません。

このような思考ができないわけです。

 

これは結構な問題です。

自分の起こしている行動や言動によって、時に迷惑を感じている人がいるということです。

しかも、その事実に全く自分は気づいていません。

このような場合、本人に「強烈な気づき」が必要不可欠です。

しかも、1度や2度でなく、です。

しかし、その「強烈な気づき」はなかなか日常生活では得られにくいものです。

周りの人間が口を閉ざしてしまう時の方が多いからです。

このような場合は、やはりカウンセリングなどで自分を見つめ直す、ないしカウンセラーとの2者関係において事実を見つめる必要があると言えます。

 


以上、無灯火の心理を考えてみました。

実際は単一の仮説だけでなく、複数の仮説が絡んだ原因だとは思います。

もし、この記事をお読みの無灯火の方、あるいは幼児的万能感や他者視点にお心当たりのある方、もしくは周囲にいらっしゃる方、是非当オフィスへご連絡をください。

灯火できるような心理になれれば、きっと対人関係、仕事なども今よりよくなると思いますよ?

するともっといい形での人生が送れるはずです。

 

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